現場で施工手順の判断に迷った際、分厚い手引書を探し回ったり多忙な主任技術者に確認したりする作業は、施工管理者の工数を圧迫し工期遅延の要因となります。かつて生成AIの利用を原則禁止としていた清水建設は、1,000ページ超の技術基準書をマルチモーダルRAG(検索拡張生成)で即座に引き出せる環境を構築し、わずか1年で利用者を8倍に拡大させました。
清水建設が実現した「青本RAG」と全社AI展開の概要
清水建設は2023年初頭、生成AIのハルシネーション(事実と異なる情報の生成)や情報漏洩リスクを考慮し、社内におけるAI利用を「原則禁止」としていました。しかし同社は方針を転換し、2025年4月に法人向けAIアシスタント「Lightblue」への刷新と全社展開を開始しました。その結果、2025年4月時点で約1,000名(提供元発表では約1,200名)だった利用者は、約1年後の2026年5月時点で約8,000名(約8倍)へ、さらに2026年8月には8,800名(利用率44%)へと急伸しています。
この利用急増の中心となったのが、社内文書『新・建築施工の基礎知識』(通称「青本」)をAIで検索・参照できる「青本のRAGアシスタント」の開発です。
| 項目 | 旧AIサービス期(検証初期) | 本格展開期(Lightblue導入後) |
|---|---|---|
| 回答正答率 | 約35%(図表認識に課題) | 93%(約400問の社内検証を経て達成) |
| 技術確認の時間 | 30分以上(書類探索・ベテラン確認) | 数分以内(AIへの質問と即時回答) |
| 利用規模 | 一部部門での限定検証 | 8,800名(社内外含む対象の44%) |
| 現場利用実績 | 実用化見送り | 2カ月で18現場・1.2万回利用(東京支店) |
1,000ページ超の社内技術基準書「青本」とは
清水建設の現場において、施工管理のバイブルとして日常的に参照されているのが『新・建築施工の基礎知識』です。三分冊、合計1,000ページを超える大部なドキュメントであり、基礎工事から躯体、仕上げに至るまでの工法、施工手順、品質管理基準が網羅されています。
現場係員や若手施工管理者は、コンクリート打設時の留意点や鉄筋のかぶり厚の規定などを確認する際、青本を紐解くか、経験豊富なベテラン社員に直接尋ねる必要がありました。しかし、現場事務所や施工場所から紙の書籍や社内サーバーのPDFを探し出し、該当する記述を特定する作業には、1回あたり30分以上の時間が費やされていました。
RAG(検索拡張生成)による社内ナレッジの即時検索
RAGとは、汎用的な大規模言語モデル(LLM)に対して、企業独自の内部文書を外部知識ベースとして連携させ、その内容を根拠にして回答を出力させる技術です。
清水建設では、東京支店企画部とイノベーション拠点「NOVARE(ノヴァーレ)」が中心となり、青本をデータソースとした専用AIアシスタントを開発しました。ユーザーがチャット画面で「コンクリート打設時の注意点は?」と入力すると、システムが青本の中から関連箇所を自動で抽出・要約し、参照元のページや章立てを明示した上で回答を返します。
これにより、現場の若手社員は誰にも遠慮することなく、手元の端末から正確な施工基準を数分で確認できるようになりました。
参考記事: 清水建設、生成AI正答率93%達成と3000人展開に見る現場主導DX
施工現場における技術確認のタイムロスと継承の課題
建設業界において、生成AIの業務活用率は全産業平均を下回る水準に留まっています。株式会社帝国データバンクが2026年5月に公表した調査によると、全業界平均のAI活用率が34.5%であるのに対し、建設業は26.4%と業種別で最低水準でした。
この背景には、建設現場特有の業務構造と技術情報の性質に起因する要因が存在します。
| 課題の分類 | 現場で発生していた事象 | 業務・経営への直接的影響 |
|---|---|---|
| 探索コストの肥大化 | 分厚い基準書や分散したPDFから該当箇所を探せない | 技術基準の確認に30分以上を要し作業が中断 |
| 属人化と確認待ち | ベテラン社員の記憶や経験則に確認作業が集中する | ベテランの手が止まり、若手の自立判断が遅延 |
| 技術文書の非構造化 | 図面、施工写真、特有の単位記号が多くAIが誤読する | 初期RAGの正答率が35%に留まり現場が敬遠 |
時間外労働上限規制と工事消化能力の限界
2024年4月より、労働基準法に基づく時間外労働の上限規制(原則月45時間・年360時間、特別条項でも年720時間以内)が建設業にも全面適用されました。施工管理者は限られた労働時間の中で、安全・工程・品質・原価の4大管理を遂行しなければなりません。
さらに、総務省の労働力調査によれば、建設業就業者の36%以上を55歳以上が占める一方で、29歳以下の若年層は約12%に過ぎません。熟練技術者の大量離職が進行する中、1つの現場で技術確認や書類作成に割ける時間は限界を迎えています。紙マニュアルの探索や属人的な口頭確認に依存する運用は、工事の円滑な進行を阻害する直接的な要因となっていました。
初期検証で直面した「正答率35%の壁」
清水建設はかつて別のAIサービスを用いて青本のRAG化を試みていましたが、初期テストにおける正答率は約35%に低迷していました。
建築の施工標準書には、文章だけでなく配筋図や納まり図、施工フローチャート、許容値を示す数値表が多用されています。一般的なテキスト解析エンジンでは、表組の列と行の関係が崩れたり、図面内の寸法線や注記が無視されたりするため、AIが誤った施工数値を回答するリスクがありました。
誤った数値を鵜呑みにすれば施工不良に直結するため、正答率35%のツールは現場で使い物にならず、一度は実用化が断念されかけた経緯があります。
参考記事: 清水建設、20億円現場を常駐2人で運営へ|Forma活用AXで定常業務半減
正答率93%達成と現場利用率44%がもたらした業務改善効果
低迷していた認識精度を克服するため、清水建設は2022年に出資していたAIスタートアップのLightblueと連携を強化しました。新システムへの移行とチューニングにより、正答率は35%から93%へと跳ね上がり、現場での実利用が一気に加速しました。
| 指標 | 導入前(従来環境) | 導入後(青本RAGアシスタント) | 改善のインパクト |
|---|---|---|---|
| 回答正答率 | 35%(旧AI検証時) | 93%(約400問テスト) | 誤答リスクが激減し実用に耐えうる精度に到達 |
| 技術確認時間 | 30分以上 / 回 | 数分以内 / 回 | 確認時間を大幅に短縮 |
| トライアル利用数 | – | 18現場・1.2万回(2カ月) | 若手・内勤・外勤へ急速に浸透 |
| 全社展開規模 | 原則禁止 | 8,800名・8,000個超 | 全社の44%が日常業務でAIを活用 |
確認作業時間が30分以上から数分へ短縮
青本のRAGアシスタントが現場に導入されたことで、技術基準の確認時間が従来の30分以上から数分へと短縮されました。
例えば、コンクリート打設における打重ね時間の間隔や、スランプ値の許容差、型枠存置期間といった専門的な問い合わせに対して、AIは注意点や例外規定を含めた回答を即座に提示します。根拠となる青本の該当ページ番号も明記されるため、施工管理者は必要に応じて原本の図面をピンポイントで確認できます。
これにより、現場監督が事務所へ戻って資料をめくったり、別の現場や会議に出ているベテラン社員に電話をかけて確認待ちをしたりする無駄な待機時間が排除されました。
東京支店18現場で2カ月間に1万2,000回利用の定着実績
東京支店の建設現場で実施されたパイロット運用では、現場常駐の施工管理者だけでなく、外勤や内勤を含む多様な職種の社員約260アカウントを対象にテストが実施されました。
試験導入の開始から2カ月で、利用回数は約1万2,000回を記録しました。現場アンケートでは「探す時間が目に見えて減った」「ベテランに聞きづらい細かい数値も自分で確認できる」といった肯定的な意見が多数を占めました。
現場の誰もが認知している「青本」という共通ドキュメントを対象にしたことが、デジタルツールに対する現場の心理的アレルギーを払拭する決定打となりました。
若手社員の自立支援とベテラン社員の負担軽減
若手施工管理者は、知識不足からくる不安や確認作業の遅れを自力で解消できるようになり、現場での意思決定スピードが向上しました。
同時に、これまで若手からの質問対応に追われていたベテラン技術者側の負担も大幅に軽減されました。確認作業の一次受けをAIが担うことで、熟練社員は難度の高い設計変更協議や安全管理、協力会社との高度な工程調整といったコア業務に専念できるようになっています。
参考記事: 清水建設、正答率93%を実現した生成AI現場定着の組織戦略
建設業特化型RAGを成功に導く実装と運用の要点
清水建設が「AI原則禁止」から短期間で利用率44%まで組織を変革できた要因は、高度なアルゴリズムの選定だけでなく、建設ドメインに特化したデータ前処理と、現場主導の運用体制を両立させた点にあります。
ゼネコンや工務店が社内マニュアルや施工図書をRAG化する際、押さえるべきステップは以下の通りです。
| 実装ステップ | 具体的な施策内容 | 期待される効果・防止できる失敗 |
|---|---|---|
| 1. データ構造化と分割 | 表組や見出し階層を保持した最適なチャンク分割 | 文脈の分断を防ぎ、検索精度を向上 |
| 2. マルチモーダル対応 | 図面・施工写真・寸法表を視覚的に解釈可能なモデル採用 | 複雑な施工詳細図の誤読を防止 |
| 3. 社内テストの反復 | 約400問に及ぶ実務テストケースによるチューニング | 現場実務に即した正答率90%超を担保 |
| 4. 市民開発の推進 | プロンプト調整や追加アシスタント作成を現場に委任 | IT部門の負荷を抑え、社内アシスタント数8,000個超へ |
表や図面を正確に読み解くマルチモーダルRAGの構築
建設技術文書をRAGに投入する際、最も陥りやすい失敗が「テキストの一括流し込み」です。PDFを単純にテキスト抽出すると、表のセル順序が混ざり、図面内の寸法や引出線の文字がばらばらに分解されてしまいます。
清水建設では、以下の技術的チューニングを徹底しました。
- 文書の階層構造(章・節・項)に合わせた最適なチャンク(文章の分割単位)設計
- 表組のレイアウトをMarkdownやHTML形式で保持したデータ変換
- 図面や施工図を画像として読み取り、文字情報と位置関係を同時に解釈するマルチモーダルAIの適用
これにより、図表を含む技術文書であっても、AIが文脈を正しく保持したまま関連情報を取得できるようになりました。
約400問の実務テストによる評価サイクルの確立
精度の改善は、開発側の自己満足ではなく、現場が実際に尋ねるリアルな質問群をもとに行われました。
社内で約400問の検証用質問を作成し、それに対するAIの検索結果と生成テキストを現場の技術者が厳密に評価しました。回答の過不足や参照元の誤りをスコアリングし、プロンプトの調整や検索重み付けのチューニングを反復したことで、35%から93%への精度向上を数値で証明しました。
定量的かつ現場視点での評価基準を持たずに運用を開始すると、初期の数回の誤答で現場から信頼を失うことになります。
「実現方法の提供」に徹する市民開発カルチャー
清水建設のDX経営推進室は、すべてのアシスタントを本社主導で構築・保守するアプローチを取りませんでした。推進部門は利用環境と最初の1〜2個のサンプル(青本アシスタントなど)を整備するにとどめ、その後のデータ投入やプロンプト調整、新たなアシスタントの作成は現場や各部門に委ねる方針を採用しました。
同社では2019年からAIリテラシー研修を進め、G検定(ジェネラリスト検定)合格者を300名以上輩出してきたほか、2024年には「シミズ・デジタル・アカデミー」を開校し人材育成を強化していました。
現場が自らの業務課題に合わせて自由にAIを仕立てられる環境を整えた結果、社内で作成されたAIアシスタント数は8,000個を超え、全社的な業務改善の自走化につながっています。
参考記事: 国交省、2040年の技術者27万人減を見据え施工管理チーム制を検討
自社の技術伝承とAI実装を前進させるための次期アクション
施工管理の生産性向上や若手への技術継承は、大規模な投資を伴う独自基幹システムの開発を行わなくても、手元にある技術基準書や施工要領書のRAG化から着手できます。
社内での検討を進めるにあたり、まずは以下の具体的なステップから着手することが推奨されます。
- 社内技術文書の特定と棚卸し
現場で最も参照頻度が高く、かつ問い合わせ対応の工数を圧迫しているマニュアル(施工基準書、過去の是正指導事例集、安全衛生計画書など)を1つ選定する。
- 過去の質疑ログを用いたテストケース作成
現場監督からベテラン社員に対して過去に寄せられた典型的な質問や、不具合発生時の確認事項を30〜50問程度リスト化し、正答判定の基準を定義する。
- セキュリティ基準の確認とマルチモーダルRAGの検証
社内データがモデル学習に流用されない閉域型の法人向け生成AI環境を選定し、図表や表組の読み取り精度を少人数の現場でパイロット検証する。
社内に蓄積された技術基準や施工ノウハウをデジタル空間に解放し、誰もが即座に引き出せる仕組みを整えることが、現場の限られた人員で確かな施工品質を維持するための足がかりとなります。
参考記事: 施工管理アプリ(クラウド型)入門|導入メリットと失敗しない選び方を徹底解説
出典: PRESIDENT Online
出典: 株式会社Lightblue
出典: 清水建設株式会社



